考えはじめの谷

練習生が自分の技術について意識をしはじめた結果、スランプにはまることがあります。 私はこれを考え始めの谷と呼んでいます。
人間は生まれた時は、外界と自らの身体の区別がついていないのです。
数ヶ月の赤ちゃんが自分の目の前で手を動かして不思議そうに遊んでいるのは、動かそうと思って動いてる自分の手と、動かそうと思っても動いていない。
目の前の天井との違いを見定めているのだそうです。
このようにして自分が意図しそれに反応して動くものが自分の身体であり自分の範囲だというのを理解していく。意識は常に外界に向けられるそうです。
小学生の低学年(7,8才あたり)より下の子供たちは、足を高く上げてはうまく理解できない。
おそらく意識を外に向けることには慣れていても、身体に向けてうまく制御することに慣れていないからです。
ちなみになぜか高学年を越えてくると足を高く上げてと言えばそれなりに理解ができるようになる。
この辺りで身体に意識を向けて制御できるようになるのだろうと私は考えています。

人間を含む動物は、基本的に外からやってくる危険から身を守り、外にある生存の為に必要なカロリーを確保するために進化しているのです。
人間も動きがシンプルに連動して力が出るのは外部の何かに身体を合わせている時です。
目標物を目指して歩いたり走ったりするのは自然にできるが、卒業式などでみんなに見られながら歩くと、どう歩いていいかわからず混乱することもあるのです。

無意識の行為を意識的に行うことは難しいものです。アスリートは幼少期、基本的に外で起きている出来事に自分を合わせるモデルで育っていきます。
来たボールを打つ、目の前のボールを蹴るなど。外部に身体を合わせることでスポーツが展開されるのです。
しかしながら、これだけでは納得できないフェーズがやって来ます。そもそもスポーツは自然な動きからかなり離れているからです。
例えば、野球のように腕を後ろに回して体をねじりながらものを遠くに投げるような行為は人間以外は行わないのです。
体操のように空中で何回転もすることも人間しか行わないのです。

生活で行う自然な動きから離れていればいるほど、技術が勝敗をわけ、そして身体への意識を配れるかどうかで熟達の加減が決まるのです。
技術を向上させる為に、私たちは自分の意識を外部から自分の身体に向けていきます。
バットを正確に振るために、脇を締めることに意識をおく。大半の運動では腰の位置を意識する。
技能上達のために考えないでやっていたことから多少なりとも意識しながら行うようになります。
そのプロセスに深く入ると、考え始めの谷にはまることがあります。

私も谷にはまりました。きっかけは自分の動きを目標にして来た師や熟達した先輩に最大限近づけようとしていたことだったのです。
ステップを考え、蹴りを考え、パンチを考えました。そうして1、2年考え続けた結果、動きは似せられるようになったのですが、タイミングがずれて行ったのです。
これはいけない元に戻ろうとしたのですが、そもそも自分がどうやって身体全身を動かしていたのかがわからなくなっていたのです。
昔のように考えないで相手に夢中になって蹴る。
パンチを打つということができなくなり、ずっと自分の身体のどこかに意識が置かれていて、常に自分に若干のブレーキをかけているようになっていたのです。
試行錯誤し、どうやって抜けたかも覚えていないぐらいですが、ともかくなんとか抜けることに成功しました。
以下はすでに考え始めてしまっている人のために経験談を書いてみます。

1. シンプルに考える

とかく、意識をし始めると、細かいことを気にしすぎてしまう。私は足の裏をフラットにつくべきか、前足部でつくべきかなど細かいことを気にしすぎてこじらせた。
改めて考えると力のほとんどは中心で作られていて、そんな細かい末端のことはほとんど影響してない。人間の動きはシンプルで、かつ競技も考え抜けばシンプルだ。
そのシンプルなところから目をそらさないことが大事なのです。
特に考え始めの谷にいる時には、弱気になっているし時間もあるから無駄に細部を考え始めてこんがらがり始めるから要注意です。
決してこねてはならない。真髄は中学生でも理解できるほどシンプルなものです。

2. 理論を完全インストールする

私は、自分がスランプになった時に徹底的に突き、受け、蹴りの基本動作を繰り返しを行いながら力まず、体幹筋力を最大限に合理的に利用するよう再構築したのです。
考え始めてわけがわからなくなっているのは型がないからなのです。型を作るためには熟達者の型に精神的な部分も含めて全部染まりきった方がいいということです。
大事なのは素直に聞くことで、それなりの年齢だとプライドもあり自分の理屈もあるが、そんなものは全部捨てて一定期間ひたすらに言われた通りにやった方がいいのです。
一番良くないのは中途半端にわかったふりをしてつまみ食いをする場合です。それは、ちぐはぐでばらばらな動きが出来上がるからです。
自分らしくやりたいなら、熟達者に染まってからあとでオリジナルを作ればいいのです。あとは、あれこれアドバイスをくれる人がいるが聞き流した方がいいこともあります。
このタイミングでは断片的な一級アドバイスより、三級でも一貫性のあるアドバイスの方が価値があるものです。

3. 適当にやる

考え始めの谷で深刻になる人間は、そもそも真面目で何かに集中しやすく、その分視野が狭い場合が多い。
考え続けているから、はまり続けている。だから、真面目に問題と向き合いすぎることで問題が深刻化するのです。
考え始めの谷は、真面目に積み重ねることで抜けるような類の問題ではなく、極端に言えば抜けるなら一夜にして抜けることもあるような問題なのです。
考えていない選手より考えている選手の方がいいと言われるが、私はどちらにもメリットがあるのではないかと考えている。
ずっと目の前のボールだけを追いかけてトップに行く選手もいるし、その方が身体の連動がうまくいく場合もある。
ただ、一度でも考え始めてしまったなら、もう考えなくなるのは難しく、考え抜くしかない。うまくいかない期間は数年に及ぶかもしれません。

それでも私は考えはじめることを勧めます。理由は二つあります。一つは考え抜いた先には自分の型ができあがることです。
そうなると何がいいかというと、新しいことを試すのが怖く無くなる。
人間どこからきたかがはっきりしていればどこに帰ればいいかもわかるので、より勇気を持って遠くまでいけるようになるものです。
型がない間は、何かがずれてうまくいかなくなるのが怖いのでむしろ細部に固執する。中心がはっきりしているほど中心以外はどうとでもできるようになる。

もう一つは、言語化できるようになることだ。言語化できるようになれば、より多くの人の技能向上に貢献できる。
選手がコーチになった場合、自分の動きで相手に伝達できるのはせいぜい引退後10年程度で、そのあとは身体が衰えるので言語で伝えるしかないのです。
しかし、考えたことがない選手は、言ってみれば自分の身体を外部から見渡したことがない選手なので、指導も自分の感覚で表現しがちになる。
具体的にはオノマトペ的表現が多くなる。
これはこれで必要ではあるが、オノマトペは自分と感覚が合う人間には通じるが合わない人間には伝わりにくく、その場合は構造的に身体を説明し伝える必要が出てくる。
考えたことがない選手はこれができない。”どう”するかは伝えられても、”なぜ”なのかは伝えられない。
考え始めに谷はあるが、それを抜け試行錯誤の末に手に入る自らの身体で遊ぶ喜びは何者にも代え難く、かつ奥が深い。
世阿弥は芸事には離見の見が重要だと言っています。自在に自らを操るということは、距離が自在にとれるということでもあり、自由になるということでもあるのです。

まとめ

・自分の意識を外部から自分の身体に向けることが、技術向上には必須。

・「考えはじめて谷」にはまったら
細部は無視する。
型を一から再構築する
たまに問題から距離を置く。

・「考えはじめの谷」を抜ければ
 ①軸となる自分の型。
 ②身体を言語化する力が得られる。

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