「適材適所」という考えが、才能の開花を阻んでしまうのか

 拙著、『知性を磨く』(光文社新書)では、21世紀には、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という7つのレベルの知性を垂直統合した人材が、「21世紀の変革リーダー」として活躍することを述べたいる。
この第67回の講義では、「技術」に焦点を当て、拙著『人は、誰もが「多重人格」 - 誰も語らなかった「才能開花の技法」』(光文社新書)において述べたテーマを取り上げてみました。

「不遇の時代」は、実は絶好機

 前回、一流のビジネスマンは、「不遇と思われる環境」においても、「希望していなかった仕事」においても、その仕事に正対し、前向きに取り組むことによって、結果として、自分の中の「隠れた人格」を引き出し、「隠れた才能」を開花させていったという話をでした。

 実際、「苦手」と思う仕事も、「不遇」と思う時代も、捉え方によっては、それまで自分の中に眠っていた「人格と才能」を開花させる、絶好機に他ならない。
 そして、人間とは不思議なもので、そうした「前向き」な気持ちで仕事に正対し、取り組んでいると、実は、どのような仕事も「面白く」なってくるのに気づくのです。

 たしかに、苦手な仕事に取り組むのは、誰にとっても楽なことではないが、実は、「苦手な仕事」が与えられたとき、それを「苦痛」と思うかどうか。そこが分かれ道になる。

 そのことを、大リーグを引退したイチロー選手が、かつて、アスレチックスのハドソンという投手に何試合も抑え込まれたとき、インタビュアーの「彼は、苦手なピッチャーですか?」との質問にこう答えました。

 「いえ、彼は、私というバッターの可能性を引き出してくれる素晴らしいピッチャーです。
だから、私も練習をして、彼の可能性を引き出せる素晴らしいバッターになりたいですね」

 このイチロー選手の言葉も、また、同様の思想を語っている。

 すなわち、「苦手なピッチャー」が自分というバッターの可能性を引き出してくれるのと同様、「苦手な仕事」が我々の可能性を引き出してくれるのである。
その意味で、「苦手な仕事」が与えられたときは、自分の中に隠れている「人格と才能」を開花させる絶好機なのである。

 しかし、「苦手な仕事」について、こう述べると、次の疑問を持つ人もいるでしょう。

 では、世の中にある「職業適性検査」といったものの意味は、何か。その人にとっての「苦手な仕事」と「得意な仕事」を判断する検査の意味は、何か。

「適性検査」の落し穴

 「職業適性検査」とは、よく知られているように、人材評価などにおいて使われる検査であるが、「あなたの性格は、これこれであり、こうした職業に向いています」といったことを教えてくれる検査である。

 しかし、ここで我々が理解しておくべきは、実は、この「職業適性検査」が調べるのは、我々が、日常、仕事や生活で示している「表の性格」や「表の人格」の「職業適性」に他ならないということである。

 従って、そのかぎりにおいて、「適性検査」の結果は、ある意味で、正しいアドバイスであることも多いが、問題は、それが「隠れた性格」や「隠れた人格」を含めて、その人の「可能性」を開花させるという視点のものではないことである。

 例えば、「営業で活躍している人」であれば、「職業適性検査」は、「あなたの性格は、明るい性格であり、外交的な性格なので、営業に向いています」とは教えてくれるが、当然のことながら、「あなたの中の緻密な性格や几帳面な性格は、まだ隠れた性格ですが、経理のような仕事に積極的に取り組めば、そうした性格が表に出てきて、あなたの可能性が広がります」とは教えてくれない。

 そして、「適性検査」というものには、もう一つ大きな落し穴がある。

 それは、「自己限定の深層意識」を生み出してしまうという落し穴である。

 例えば、この「営業で活躍している人」が先ほどの適性検査の結果を踏まえ、「自分の性格は、明るい性格なので、営業には向いているが、あまり緻密な性格ではないので、経理のような仕事には向いていない」と考えた瞬間に、この「自己限定」が生じてしまう。

 なぜなら、この思考には、「自分は、明るい性格なので、営業に向いている」という肯定的な意識と同時に、「自分は、緻密な性格ではないので、経理には向いていない」という否定的な意識や自己限定の意識が潜んでいるからである。

 同様に、「適性検査」において、例えば、「あなたは論理思考に向いている性格です」「従って、あなたは、アナリストのような職業に向いています」という結果が出たとき、我々の中に、密やかに「自分の性格は、感覚表現には向いていない」「従って、自分は、デザイナーのような職業には向いていない」という「自己限定の深層意識」が生まれてしまうのである。

 もとより、こうした「適性検査」には、それなりの意味も意義もあるが、その評価だけを表面的に真に受けてしまうことの「落し穴」や「怖さ」には気がついておくべきであると思うのです。

「適材適所」という言葉の怖さ

 そして、この「職業適性」という言葉と同様、「適材適所」や「長所を伸ばす」といった言葉も、本来、温かい人間観に基づく前向きで素晴らしい言葉なのであるが、その理解や使い方を誤ると、そこに、落し穴がある。

 例えば、部下に転属や転勤を命じたときなどに、この言葉を使う場面を誤ると、部下の心の中に、「自分は、この場所では、適材ではない」や「ここでは、自分の長所を発揮できない」といった裏返しの「否定的な意識」を植え付けてしまい、結果として、その「隠れた可能性」を引き出すことができないマネジメントに陥ってしまうこともあるということです。

 同様に、「自分に向いている仕事」という言葉も、怖い言葉である。

 なぜなら、成長途上の若いビジネスマンがこの言葉を使うとき、「自分に向いている仕事」という言葉の奥に、しばしば、「現在の自分でも、苦労しないで楽にできる

仕事」を求める気持ちが忍び込んでいるため、その意識が、折角の素晴らしい可能性を開花させずに終わらせてしまうからである。

 もし、そのビジネスマンが自分の才能の開花を願うならば、むしろ、失敗も許される若い時代には、「自分に向いていないと思う仕事」に敢えて取り組むことも、「人格と才能の開花」のための一つの優れた技法なのである。

 実際、我々は誰も、油断をすると「自分に向いている仕事」に安住する傾向がある。それゆえ、日本には昔から、「若い頃の苦労は、買ってでも、せよ」という格言が語られるのであろう。この言葉は、まさに「人格と才能の開花」という意味でも至言である。

 ただし、正直に言えば、私自身、若い頃にこの言葉を聞かされると、苦労を押しつけられているように思い、あまり納得できなかったのも事実です。

 さて、ここまでは、「深層人格」を開花させる第二の技法として、「自分の中の『隠れた人格』が開花する仕事を選ぶ」という技法について述べてきたが、では、第三の技法とは、どのような技法か。

「日常とは違う人格」を体験する

 それは、「日常とは違う場」で表れる「日常とは違う人格」を体験する
 
 という技法である。

 では、なぜ、「日常とは違う場」なのか。

 なぜなら、「日常の仕事と生活の場」は、しばしば、行動が単調であり、人間関係が固定化しており、場の文化が均質だからである。
そして、そうした「場」では、自分の中の幾つかの「表層人格」しか表に出てこないため、「深層人格」のレベルの「隠れた人格」は、あまり表に出てこないからである。

 仕事や職場とは違う場面、すなわち、家族や親戚、友人や恋人などとの間で表に出てくる「異なった人格」を自己観察することの大切さを語ったが、しかし、それらはいずれも、まだ「表層人格」のレベルの人格であり、そうした日常的な人間関係の中にいるかぎり、「深層人格」は、なかなか表に出てこない。

 それゆえ、「日常とは違う場」で表れる「日常とは違う人格」を体験することが重要になるのであるが、ここで、大切なことは、この「日常とは違う人格」を「経験する」のではなく「体験する」ことである。

 では、「経験」と「体験」は、何が違うのか。

 「経験」とは、一日、生活や仕事をしていれば、誰でも、一日分、何かの「経験」はしている。しかし、その「経験」を、心の中で振り返り、深く見つめ、そこで何を学んだかを反省すると、それは「体験」と呼ぶべきものに深まっていく。

 そして、ここでさらに、もう一つ大切なことがある。

自分の中の「人格」を体験する

 ここで「体験」するのは、その「場」を体験するのではなく、自分の中の「人格」を体験するのである。

 すなわち、ある「日常とは違った場」において表れてくる、自分の中の「日常とは違う人格」に気がつき、静かに、そして、深く、見つめることである。

 実は、この「見つめる」ということによって、自分の中に隠れていた「日常とは違う人格」が明確に意識されるようになり、表に出てくるのである。

 例えば、我々が、日常的に生活をしている日本とは全く違った海外の国、アジアやアフリカの国などを独りで旅をすると、日本の日々の仕事や生活では表に現われていない「自分」が表に出てくることが、しばしばある。

 若い頃、海外を独りで旅をするときには、そうして現れてくる「自分」を発見し、少し驚き、見つめ、その「自分」を楽しんだ記憶がある。

 また、後に、部下と一緒に海外出張に行くと、部下から「部長は、海外に出ると、人格が変わりますね」と言われたことがある。

 これは、多くの人が経験していることでしょう。

 しかし、こう述べてくると、この「見つめる」という言葉を聞いて、一つの疑問を抱く読者がいるかもしれない。

 自分の中から一つの人格が現れてくるのを「見つめる」と言うが、そもそも、「見つめる」のは、誰なのか?

 この質問は、実は、極めて重要な質問である。

 なぜなら、この「自分を見つめる自分」の意味を深く理解するならば、そのとき、我々は、「才能の開花」の世界を超え、「人間性の開花」の世界に入っていくからである。

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